2019年3月14日木曜日

Fuck up beats

毎年恒例のハンドメイドバイシクル展が開催されました。
昨年よりも若干ではありますが来場者も増え、まだまだ右肩上がりに成長?と、数字だけ見ればそんな錯覚もあり得るのかもしれません。

当日の写真がないのですいませんが、ご挨拶の文章だけ。。



       == ご挨拶  ==


” どんなことでも一人の人間がプロとして成立するためには平均して10000 時間の鍛錬が必要” という統計があるそうです。

1 日8 時間、年300 日働いて4年かかる計算になります。 なるほど、とても納得がいきます。
というのも僕も「こういうことか」と思えるまで確かにそのぐらいの時間がかかったように思うからです。

実際その時間の長さが正しいのかは知りませんが、誰にでも等しく必要な期間だということは事実だと感じます。
僕自身はその内容に関わらず誰かが何かができるようになるまでの道程は同心円上のスタートラインから中心の球状のゴールを目指す徒競走のようなものだと思っています。

(月)横から共にスタートした同胞とはその時間という絶対の要素を共有することでその目的や気概も共有しあい、

(火)±90°横からスタートした人間の自分とは違うやり方、生き方に即座に肯定的になれずにも徐々に大きくなるその姿を意識せざるを得ず、

(水)±179°の人間に「なぜそんなショートカットが許されるのか」とその理由を探すも見つからず憤慨し与えられたものの違いを嘆き、

(木)予想もしない価値観と共にその行程を歩む180°反対からスタートした人間にいつか出会うことを夢見る。

そんな徒競走。

そして全員が二度と取り返せない膨大な時間をかけて同時にゴールにたどり着いた時初めてそのゲームの意味に気づく。
「なんだ、みんな同じ距離を歩んできたのか」と。 
そして知る、「自分ができることに意味があるのなら誰かができることにも等しく意味がある」と。
” 誰が” ゴールしたか。そんなことはどうでもいい。” ゴールした事実” それ自体が誰にとっても喜ばしいんだと。

できないことができるようになることは僕の人生の最大の喜びだと常々思います。
(もちろん子供の成長もですが)
昨日とどう違うのかわからないほどでも小さく変化した今日を積み重ねて望む明日を作る。
それ以外に方法はないのだと確信しています。

「今日と違う明日が本当に来るというのですか。今日と違う昨日も思い出せんというのに。」by♨ 
来る。明日は必ず来る。 来させる気さえあれば。

僕が作る物は常に僕が見たい物です。
それはその物の本質をつかない虚飾の言葉など必要ない言葉無くして語る物であってほしいと願っています。
そしてそんな物を自分で作り、その完成を祝い酒と共にそれを眺める。 
その時「僕はこのために生きている」と本気で思うし、そんな瞬間があることそれ自体が幸せというものだと思うのです。

We've come a long long way together,
Through the hard times and the good,
I have to celebrate you baby,
I have to praise you like I should
              -Fatboy slim



     =====



僕の子供は今、上が10歳の小学校4年生(可愛すぎる)なのですが(下は1歳で可愛すぎる)、担任の先生方がまぁ、お若い。
小学校の教員だった僕の母親が言っていたのですが、今の教師の年齢層は見事に中堅層がズッポリ抜け落ちた歪な構造になっているそうです。
長男の小学校にもその図式がまんま当てはまるのが一見してすぐ分かります。

年に一度の日本の同業者の祭典であるこの会に行くごとにこの話とまんま同じものを見ます。
出来上がった構図を変えることなど当然できるわけはなく自分の居場所を変えることもできるわけがありません。
唯一できることがあるとすれば、様々な立場の人それぞれがその立ち位置を理解しその場で何ができるのかを模索することです。
僕たちのように新参であればあるほど自分が枝葉の末端としてどんな行動がとれるのか、それを考える必要があると感じます。

錯覚ではなく実感にするため。


真冬の時代一歩手前の1990年、多くのキリギリスが死にゆく手前。
一時代が30年で繰り返すとするなら、今はまさにその時です。
そして事実そうでしょう?



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