2018年11月8日木曜日

壺、思うんですよね。


僕は8年前に開業し、それまで憧れでしかなかった多くの有名な同業者の皆さんとお会いすることが出来ました。
もちろんそれだけでも嬉しいのですが、僕はその方々それぞれの自転車を通してその価値観や志のようなものを見せてもらい、また一人の同業者として僕の意識が織りなす僕の自転車を見てもらい多くの言葉や反応を受け取ってきました。
そこで得た言葉や気づきは間違いなく僕の生涯の宝で、”行動の先にある結果を見られる幸せ”そのものだ と、今の段階でも思えます。

その中でも最も心に残っている言葉は、我らが輪天堂の岡田さんの放った「自転車って何なの?」という、自転車と共に生きる者が望み続ける以上抱き続ける疑問の言葉でした。
もちろんその場その時に僕はその問いの答えなど持ち合わせておらず、未だに自分の分すら見つけられませんが、
「ああ、やはりこの人も”そう”なのか」 と、自分が独りではないことを教えてくれたその言葉自体が、その答え以上に意味があるように感じられました。
人は皆思うんだな、と。 「人生とはなんなんや」と。 
そして体感的にわかりました。人は独りでは生きられないんだな と。


話変わって、今日 同じ業界のとある有名な方のつぶやきが目に入ったのですが、正直愕然として開いた口が塞がりませんでした。
曰く、数値やスペックを漁るのはオタクではなく、その本質、根源を知ろうとするのが真のそれである とのことだそうで。

正直何が言いたいのかさっぱりわかりません。
(何が言いたいのかわからない ということ自体をこの場で言うことに意味があるかも不明なのは重々承知ですが)
確かなのはこの方は二項対立の中で生きていて、(過去の発言から)真こそ求められるべき と言いたいらしいということです。
そうだとすると(対立しあう事象には論者のイデオロギーが反映されるらしいことを踏まえて)
「数値、スペック<本質、根源」 「偽<真」 を対概念として用いているこの言葉は、要約すると 

「上辺を知ろうとする人間は偽であり、本質を求める人間はそれに勝る」

と言っていると解釈するのが妥当なように思います。(人間=オタクという表現から)

だとすると信じられないぐらい傲慢な発言だと思うのは僕だけではないと思う。


ツッコミどころが多すぎて何から言えばいいのかわからないほどですが、

仮に事物に本質と上辺があるとし、その不可視の本質、根幹に肉付けがなされ事物が完成し、そのトータルを持ってその存在となるなら、付けられた肉(上辺)そのものも存在の一部であることは明白で、
それならば、上辺を持って可視化されたそれ自体の要素を指す数字、状態がその対比において何故その本質より劣るのか。 
それはそれ自体じゃないの? 僕にはさっぱり理解できません。

加えて、行為それ自体に優劣をつけるというバカバカしさだけならまだしも、こともあろうかそれを嗜好する人間それ自体にそのヒエラルキーを当てはめるというのは、あまりにも未成熟で幼稚な考えと言われてもしかたないんじゃないかと。
極論「肥溜めを洗う人間は下等な人間である」と言ってるのと同じように見える。
数字、スペックを記憶することに喜びを感じる人間がいてもおかしくないし、
目で見えず手で掴むことができないその物の本質を的確に突くことなど誰にでもできる芸当ではない。
当然のことだけど、人が嗜好し望み行う行為に優劣などあるはずがない。
ましてその優劣がその人間の価値になることなど決してありえない。


そして何より、僕が一番理解できないのは、この人は自身の真が他人の偽である可能性を考えないのか という点です。
考えないなら本当に羨ましい話ですが、あたり前ながら、自分が正しいと思うのと同じだけ、他人も自身が正しいと思う可能性がある と考えたほうが無難だと教えてあげたい。
自分が本気であればあるほどに、あいつは本気ではない などと他人を指差して笑うことなどできない。
なぜって、そういって差す指は他ならぬ自分に向けられているのと同じことだから。
何も差さない人差し指など存在しない(あればいいけど)。
結局、二項対立の世界からは何も生まれないんじゃないかと。
もとい 対立しか生まれないんじゃないかと 僕は言いたい。


たかが自転車なんぞを本気で自分で作ることのバカバカしさ、愚かさを自分自身で俯瞰しながら、それでも本気で自分で作る。
自身の中に 他人に向けたほうが幾らか楽か知れないほどの本気であることをバカにする笑いと、根拠のない願いを叶えられる純粋な喜びを常に共に抱え、その矛盾を解決できないにもかかわらずそれでも続ける。
人が望み実行する行為というのはそういうものだと僕は思う。
一本のフレームも、それを作る行為も、果ては一人の人間の人生も、全てその人の自身との対峙の深さによりその度合いが左右されるものだと僕は思う。



またまた話は変わって、僕は森羅万象における入れ子構造の存在を本気で信じています。
(自身では「マクロ、ミクロのどこを取っても同じ原理で同じ構造が生まれる」 という内容で解釈しています)
僕はその一文から図らずもそのことを再確認させられ、そして恐ろしく。。。
上のつぶやきにそれを感じずにはいられなかったのは、その発言が作る世界にまるで今の日本の縮図を見るかのような気がしたからです。
事実そのつぶやきには多くの同業者が反応、同調し、「いいね」の言葉尻からか、その発言が支持されているようにモニター越しからは見受けられたわけです。
僕の考えすぎであることを願いますが、それに同調した人たちにその思いはないと思うあたりにもミクロの日本があるように思ったわけです。

ここまできたらもう言う必要もありませんが、今の日本はどう考えてもおかしい。
今後天文学的数字の期間で人が住めない土地を作り、食べ物も管理され、人は貧しくますます少ない。それでも戦争に向けてまっしぐら。
なんだこりゃ、リアルナウシカの世界かよ と。

地域も会社もある考えを共有する集まりも、それを構成する最小単位が人である以上、人の度合いがその集まりの度合いとなるのは当然のように感じます。
自己との対峙を通して自分の行動、考えの規範を知る。
今の僕に、日本に最も必要なことはそれだと僕は思います。
そう思う理由は上記の通りで。